エウレカ徒然備忘録

時事報道への感想を中心に、ときにアニメDVDを使った英語学習法などを徒然書いています

アジア杯対豪州戦の感想

いかにも蒸し暑そうなハノイで行われたアジア杯の準々決勝をTVで観戦した。終始押し気味で試合の主導権を握っていた日本だが、Corner Kickから豪州に1点を先制され、その後すぐに高原のGoalで追いついた。豪州は、一人退場で10人での戦いを余儀なくされたが、1対1のまま延長戦に突入。延長戦でも豪州の粘り腰で決着がつかず、PK戦にもつれ込み、またもや川口がPK戦での勝負強さを発揮して、辛くも豪州を振り切った。

終始試合の主導権を握っていたように見えた日本だが、延長戦を見ている時にはPK戦になって敗北するかもしれないなと思った。延長戦では圧倒的に優位に立っていた日本だが、勝ちたい気持ちがより強い方に勝利の女神が微笑むと言う状況下であるにもかかわらず、どうも日本選手には勝利への執念が少し欠けているのではないかと思えた。PK戦狙いで守っているだけの豪州の執念が勝っていたとも思えないが。

「運」の要素があまりにも強いPK戦そのものに否定的なオシム(Ivan Osim)監督は、「PK戦は試合で劣勢だった方に軍配が上がることが多い」と試合後語っていた。確かに、優勢だったTeamは、試合の主導権を握っていたことに心のどこかで満足してしまっている選手もいるだろうし、それにもかかわらず勝ちきれなかったことに否定的な気持ちでPK戦に臨んでしまう選手も出てくる可能性がある。一方、劣勢だった方は、失うものは何もないと言う気持ちで思い切って球を蹴ることができるのだろう。

しかしだ、日本人の精神構造には、もう一つ違った要素があるのではないかと思えたのが昨晩のPK戦だった。オシム監督の挙げる日本人の最大の欠点の一つに責任を取ろうとしないと言う批判がある。これは、おそらく西洋人の文化に比べると、個が集団の中に埋没していて強烈な自我を形成しない日本文化の伝統に根ざした傾向なのだろうとさえ思えるのだが、PK戦のような状況、すなわち徹底的に個の戦いの場、誰が失敗し、誰の責任で負けたかあまりにくっきりと浮かび上がる状況になると事情が少し違ってくるのではないかと思うのだ。個の責任を徹底的には追及せず、自己犠牲の精神が強い日本人の特性から、剣道や体操などの個人競技団体戦のような様相になり、本番でなかなか力を出し切れないと言われる日本人だが意外にPK戦は強いと言うことになるのかもしれない。もちろん、これまで多くの修羅場を経験して代表を救ってきた川口主将の存在が大きいのだろうが。

ところで、教えられた戦術を忠実に実行できると言う段階から、更に高次元へと進まなければならない段階にさしかかっていると思われる日本サッカーは、オシム監督と言う名伯楽を得たのではなかろうか。多分そうなんだろう。前監督は、次の段階を一人一人がより高次元の領域に到達することによって発揮される自由自在なPlay Styleを思い描いていたようだが、そのやり方は、必ずしも日本人選手の特性に合致しているかどうかは実証されなかった。一歩譲って仮に合致していたとしても、それは只のBrazilの物真似にすぎず、物真似で本家を超えるのはとてつもなく難しいことだっただろう。

オシム語録には、日本人の特徴、文化や伝統をも踏まえた、どのような状況にも対処して変化できる代表を目指すというような発言があり、その方向性は間違いではないと思う。所詮は母国Yugoslavia代表1990年W杯伊大会8位までの実績だが、その後同国は内戦状態となり、Soccerどころではなかった。その後も内戦などなくオシムがやっていれば...の話には事欠かないようだ。

「日本人はシステム論議が好きらしいが、システムは保証でしかないことを理解したほうがいい。システムの奴隷になってはいけないのだ。」(2003-05-15 2003年5月15日発売 Number575誌上にて)

「日本人は、海外のまねをするのではなく、自分たちの持っている特長をもっと生かすべきだね。」(2003-06-13 インタビューの中で、「Jリーグについてどう感じますか」の問いに)

「私には、理想とするサッカーはない。「こういうチーム」と決めてしまうとそれ以上のチームにはならないからだ。完璧と言えるチームはないと思っているし、起こりうる状況の中で常に前進して行くだけだ。」(2003-06-13 インタビューの中で、「どんなチームを作りたいですか。」の問いに)

「日本の長所は、あくせく、すばやく動き回れる点だ。体が小さい分、ぴったり厳しいマークにつくこともできる。日本人としての特性を、自分たちのやり方で生かさねば、もったいない。体の大小や、肌の色など関係ない。知恵と工夫次第では、弱点を利点に変えることもできる。だからサッカーは、おもしろいのだ。」(2004-11-16 朝日新聞朝刊「オシムの提言」より(2))

「我々の国民は過小評価する癖があり、日本サッカーについても"あれは子供のプレーだ"と言うだろう。けれども日本を経験した選手が誠実になれば、どんなプレーをしていたか率直に語るはずだ。日本でプレーすることはそうそう容易いことではないとね。残念ながら体格面が日本人の大きなハンディキャップだ。世界のサッカーは高さへと向かっているが、日本で190cmの選手を持つことは決してない。体格の良い選手を持っているヨーロッパならば、次の解決方法に手を伸ばすことができる。"美しいサッカーができなくとも、パワーによるサッカーは可能だ"というもの。日本はそんな立場にない。けれども日本人は素晴らしい面を持っている。非常に速いスピード、尋常ではない闘争心、サッカーに必要な多くの感覚や素晴らしい個人技術といったもの。それら全ての特徴を集めれば非常に"強い武器"となる。」(2003-06-01 Sportske Novosti紙)

「日本人は伝統的に責任を他人を投げてしまうことに慣れてしまっている。工場ならそれでも機能するかもしれない。全ての責任を取締役に押し付ければいいんだからね。けれどもサッカーでそれは通らない。サッカーでは上司も労働者も全員が一緒にいるわけだから。」(2003-06-01 Sportske Novosti紙)