エウレカ徒然備忘録

時事報道への感想を中心に、ときにアニメDVDを使った英語学習法などを徒然書いています

「写実」が主張された時代について

「写実」と言うと俳句の正岡子規を思い出すのは、「坂の上の雲」の影響かもしれません。しかし、子規が実際どのような主張をしていたのか、原典に当たったことはないのでよく分からないというのが正直なところです。以前にも書きましたが、Realismには程度というものがあって、芸術作品に求められるRealismの程度は人によって異なると思っています。私自身の場合、芸術はあくまでも作り物であるべきで、そこに過剰なRealismを持ち込むことを評価しない感性を持っています。Anime「化物語」を評価しないのは、Animeに実写を頻繁に持ち込む手法に違和感を抱いてしまうことと、同時に絵の背景などについては逆に現実離れした超現実主義的な描き方をする手法を独りよがりな前衛性と受け止めてしまうからです。

「写実」主義にまつわると思われる問題は、1970年代の漫画界にも表れました。「巨人の星」などいわゆるスポ根物が時代の寵児となると同時に漫画界に持ち込まれた劇画という手法です。それまでの手塚治虫を第一人者として営々と築き上げられてきた少年漫画とは、手塚が採用したクローズアップを多用する映画的な画面展開とデフォルメされた絵が特徴でした。ところが、劇画は、その手塚流のデフォルメを否定し、一時的に手塚を含む旧世代の漫画家たちの作品群を時代遅れなものに押しやってしまいました。

その後、スポ根の隆盛も飽きられ、それに伴って劇画の流行も過去のものとなりました。手塚は、「ブラックジャック」、「火の鳥」などの後期の傑作を生み出して復活を遂げています。ここから言えることは、正岡子規の時代には明治初期の、劇画隆盛の時代には1970年代特有の時代背景があって、「写実」を作品の受け手が受け入れ、強く求めたに違いない。しかし、それは、全てに時代に当てはまることではないということです。絶対に変わらない根底にあるものはそう簡単に変わらないのかもしれませんが、表層に表れる価値観や主義主張というものは、時代背景によって容易に揺れ動くものであるというのは、若い女性の化粧や服装の流行を例に挙げるまでもなく明らかなことです。

そこで、最近の報道の1つで考えさせられたのは、大阪の橋下知事と国歌を唱和せず、国旗掲揚に異を唱える教育公務員達との争いです。これは、条例にも定められた業務命令に従おうとしない公務員を処分するという話なのですから、どう考えても知事の主張が正しい。また、国旗及び国歌を敬うというのは、議論の余地のない国民たる者の常識であって、そのことを条例等で公務員に強制すること自体相当性を欠くものではあり得ません。何かあるたびに日章旗を侮辱したり、燃やしたりする近隣諸国の行動を黙って見ていることの方が国際的には非常識極まりないことなのです。

百歩譲って、「表現の自由」、「思想信条の自由」などの見地から、件の教育公務員達の行動があり得るとしても、そういった者たちの行動を公然と認めるには、今の時代は危険すぎる状況だと認識すべきです。時代は、米国の一極覇権が崩れ、米国の国家戦略であったGlobalizationも過去のものとなりつつあります。こういった弱肉強食に先祖がえりしかねない世界情勢下、国家意識の希薄な世界市民的博愛主義の平和ボケを次世代にも大量に生み出すような行為を知事は絶対に認めないと世に問うているのだと思います。若い知事の憂国の思いと怒りとが痛々しく感じられます。