エウレカ徒然備忘録

時事報道への感想を中心に、ときにアニメDVDを使った英語学習法などを徒然書いています

清水社長の土下座について

養老孟司先生の「バカの壁」を読み直していましたら、心理学者ヴィクトール・E・フランクルの著作についての記述があることに気付きました。フランクルについては、養老先生の他にも何かで読んだことがありました。ユダヤ人であったフランクルは、ナチスによる強制収容所の体験をもとに考えた「生きることの意味」についての著作をいくつか残しているそうです。フランクルよると、人間が人生において実現できる価値は3つあります。

1つ目は「創造価値」
これは、何かを創り出すことによって実現される価値のことです。仕事や芸術作品の創作などがこれに当たります。

2つ目は「体験価値」
これは、何かを体験することによって実現される価値のことです。芸術作品を鑑賞したり、自然の美しさに感動したりすることがこれに当たります。

そして、3つ目が「態度価値」です。
これは、自分に与えられた状況や運命に対してどんな態度を取るのか、その態度によって実現できる価値です。人間の尊厳を奪われるような筆舌に尽くしがたい仕打ちを受ける強制収容所においては、創造的な活動をすることも、人間らしい喜びや楽しみを体験することも、実現不可能な状況でした。しかし、そこでフランクルは、このような状況でも実現できる「究極の価値」を見出したのです。それこそがこの「態度価値」でした。

さて、東電の前社長である清水氏が月初に社長として原発被災者の避難所を訪れたときに、避難住民の一人から「土下座しろよ、清水!」と言われて住民に土下座して謝る場面の動画がNetにも上げられていました「土下座しろよ、清水!」。それを最初に見たときには、先の見えない避難生活が続き、「避難住民の我慢も限界にきているのだろう。無理もない。」という感想しか持ちませんでした。しかし、よくよく考えてみると、あれはひどい映像です。実際にあの避難住民の立場におかれたならば、小生自身清水社長を始めとする東電関係者に対して冷静でいられた自信はないのですが、それでも、土下座を要求するのは生産的でないばかりか、少なくとも美しい行為には到底見えません。

さらに考えさせられたのは、土下座を要求されてそれに従った清水社長の姿勢です。清水社長自身は、原発事故によって引き起こされたといえる悲惨な避難住民の境遇に対し、ただただ申し訳ないという思いから土下座の要求に応じただけなのかもしれません。また、社長として会社を守るためならば何でもするという気持ちも少しはあったことでしょう。しかし、土下座という行為は、これまで電力の供給を通じて社会に貢献してきた東京電力という会社の歴史及び今昔の従業員を始めとする全ての関係者を否定してしまうようで、「矜恃」ということに関する「疑問符」を多少持ってしまったのです。

どうも、この土下座といい、海水注入中断事件に代表される数々の情報隠蔽といい、この会社の最高幹部らは、態度価値の点でも指導者らしからぬ人たちであるように思えてなりません。