エウレカ徒然備忘録

時事報道への感想を中心に、ときにアニメDVDを使った英語学習法などを徒然書いています

金融アニメ「C」の問題提起

本年4月から、フジテレビ系で放映開始された「C」は、金融経済という今日的な主題を取り上げた問題作です。

物語の舞台は、20XX年の日本。世界は100年に一度の金融危機も経験しており、日本の状況も現実の日本とあまり変わりばえのしない将来に希望の持てない経済情勢です。そんな社会の片隅で、我らが主人公余賀公麿は都内の大学に通う経済学部の学生。公麿は、幼くして両親を亡くし、奨学金とアルバイトで学資と生活資金を捻出している苦学生でもありました。夢は、公務員になり、できれば平凡な家庭を持ち、マイホームを持つこと、一言でいうと、「平凡に暮らすこと」でした。

ごく平凡な大学生活を送る公麿の前に、ある日突然、不思議な男が現れます。彼は、ミダス銀行の行員を名乗り、欠員が生じたからと言って公麿を異次元世界の金融街へと誘います。異次元世界の金融街招請された人間はアントレ(Entrepreneur)となり、アセットと呼ばれる人ならざる生き物とともにアントレ同士の対戦(Deal)を行って、これに勝利しなければなりません。勝利すれば、巨額のミダスマネーの入金という見返りがありますが、勝てなければやがて破産して金融街を去らなければならないことになります。アセットたちはアントレの未来を具現化したものとされ、ディールにおける敗戦は、現実世界での未来の喪失及び変更(悪い方への)を意味し、破産した場合には、本人自身の喪失にも直結していきます。

当初戦いに消極的だった公麿はパートナーとなったアセットの真朱(マシュ)に尻を叩かれ、次第にその才能を開花させていきます。本作品のヒロインでもある真朱は、見かけによらずその力(“Scorched Earth” “Overheated Economy”)は絶大で、その後の公麿の精進もあいまって、2人はミダスマネーを順調に稼ぎ出していけるようになります。

そんなある日、亜細亜金融市場に「C」(CrisisのC?)が襲いかかり、シンガポール市場が消滅。金融危機は連鎖的に日本市場にも襲いかかります。金融街の最有力アントレである三國壮一郎は、日本の将来を担保にミダスマネーを増刷させ、この金を元手に日本市場の買い支えを敢行、「C」の第一波から日本市場と現実世界の存続を護りぬきます。しかし、その代償は、目を覆うもので、未来を失った日本から多くの人々が消滅してしまい、さらに1箇月間に産まれた子供の数が全国でわずか3人という悲惨な現実が姿を現します。

この物語で象徴的に提示された主題は、「将来を犠牲にしてでも今ある現実世界を護りぬくべきなのか、それとも、将来のない現実に意味はないと考えるのか」の一点に尽きます。そして、それはまさに今現在我が国が行っていることに繋がっていきます。つまり、我が国の財政は、累積債務残高がGDP比で200%を超え、単年度財政赤字がGDP比10%前後で改善の兆しが一向に見えてきません。歳入の半分は、赤字国債に依存するというのは、将来を担保にして今現在の生活を護っているに過ぎないと言うこともできます。金融危機後の景気後退に加え、震災による打撃で、正統な金融政策は財政支出を増やす景気刺激策であり、金融緩和策です。しかし、今の日本は、衰退期に入った国を象徴するかのように社会保障費が毎年のように増え続けて財政破綻は免れず、これ以上に将来を担保に赤字国債を発行して景気刺激策を断行してよいものなのか、子孫のことを思えば誰もが疑念を持つところです。だからと言って、正統な経済政策に反して、不況期に大増税など断行しようものならば、さらに不況が深刻化し、現実の生活の破綻を早期に招来してしまうだけです。そうなれば、税収増など努々望むことはできません。

「C」が提示しているのはこの二律背反の非常に深い問題意識なのですが、次回11話は、遂に「現実を護らなければ将来などない」という固い信念のもとに非情に徹する壮一郎に対して「未来のない現実など意味がない」として未来を買い戻すために捨て身の勝負を挑む公麿の直接対決になりそうです。さて、その結末や如何。