エウレカ徒然備忘録

時事報道への感想を中心に、ときにアニメDVDを使った英語学習法などを徒然書いています

「美徳」という視点について

 最近、岡田斗司夫という人の講演の動画をたまたまみていて、その中で面白い話がありました。ちなみに、この岡田さん、Evangelionで有名なアニメ会社Gainaxを立ち上げた人でもあります。岡田氏自身は、エヴァが制作された1995年以前に同社を退社されていますが...。

 さて、本題。岡田氏の言っておられたことで小生が面白いと思ったことを、小生なりにまとめてみますと、次のようなことです。今日、起こっている様々な対立は、「合理」と「原理原則」との綱引きとみることができます。例えば、自分のことで恐縮ですが、小生は、時々歩行者赤信号の横断歩道で、車が明らかに来ないとき、平気で渡ってしまうことがあります。これは、そもそも歩行者用の信号は、歩行者を車から守るために存在するのであって、その車が来ていないのだからそれでも止まっているのは不合理で、その場合信号を無視するのが合理的と考えているからです。しかし、赤信号はとにかく車でも人でも関係なく停止するもので、青に変わるまで歩行者であっても待っていなければならないというのが、原理原則のようでもあります。

 この2つの考え方は、まさに「合理」と「原理原則」との二律背反であり、この2つが綱引きを始めると、そう簡単には着地点を見つけることができなくなります

 同じようなことが、昨日も世間を多少とも騒がしておりました。「経団連米倉弘昌会長は26日の会見で、東京電力の賠償問題に関し 枝野幸男経産相が東電社員の給与水準は公務員などと同等でいいと言及したことに対し、『要求があまりにも一方的だ』と強く非難した。」と、この報道です。枝野経産相は国会でこう発言したはずですが、いくら未曾有の自然災害がきっかけだったとはいえ、東電は倒産しても仕方のないような状況ですから、これは一見説得力のある合理的な判断に依った発言と聞こえます。一方、米倉会長の主張は、自由主義経済の原理原則に則して、仮にも私企業である東電に対して政府の高官がこういう発言を軽率に行うものではないということなのでしょう。

 ここでも、政府と財界は、「合理」と「原理原則」に固執して綱引きを続ける限り、歩み寄りの手がかりは容易には見つかりません。

 このような状況を動かすには、「合理」と「原理原則」以外の第3の視点が必要です。少々Hegelの弁証法なども想起させますが、「止揚」とは異なります。その第3の視点とは、岡田氏曰く「美徳」であります。最近の教育では、道徳教育をどの程度重視しているのかは知りませんが、それにもかかわらず、日本人の感性の底流に流れるその行為が美しいか醜いかという価値観があります。例えば、赤信号を無視して横断歩道を渡る行為は、行為として決して美しいものではありません。誰も渡ろうとしない中、自身の合理主義だけを信頼してただ一人毅然として行くような行為には、多少の美学を感じないこともありませんが、みんなで渡れば怖くない式の行為はひたすら無秩序で醜い行為であるばかりです。要は、小さな子供が見ているのに実行できるのかということでもあります。

 最近、M銀行の支店に用があって出かけたときのことです。何年も前に開設した口座があったのですが、10年以上も使っておらず休眠状態と記憶していたものについて、まずその口座が閉鎖されずに残っているのかを確認し、残っているならば使用を再開するための必要手続きを取るというのが銀行へ出かけた目的でした。口座は、合併以前の旧某銀行の某支点に休眠口座で残っていることが分かりました。しかし、通帳及びCash Cardを再発行するとなると、2千円超の手数料を取られることも分かり、支店窓口担当者の助言に従って、旧口座を解約し、新規口座を開設することになりました。

 手続きには、時間を要したものの途中までは順調に進み、新口座開設の書類に必要事項を記入して、窓口に手渡し、押印及び身分確認書類の提出も終わって、簡単に使用目的を尋ねられました。小生は、主に業務関連の金銭の受け渡しにこの口座を利用したいと思っていたので正直にその旨伝えると、担当者はにわかに態度を変え、責任者に確認に行って戻ると、業務用ではこの申請書で口座の開設は受け付けられないと言いだしたのでした。それならと、「口座開設の目的は、業務用ではなく個人使用中心です、責任者にそう伝えてください」というと、それは手遅れで受けられないという始末。小生もこの窓口の対応に切れてしまい、「それならば、新規に口座なんか開く必要はない。ふざけるのもいい加減にしろ」と啖呵を切ってしまいました。

 だってそうですよ。小生にしてみれば、新規に口座を開くと言っても、銀行の助言に従って今まで休眠口座で存在していた口座を復活させる代わりに新規にこれを継承させる口座を作ろうとしたに過ぎません。旧口座に残っていた残高も旧口座閉鎖後新規に移管する手続きを取りました。今現在厳然として存在している口座があるのに、いかなる理由でそれを承継する口座が開設できないという結論になるのでしょうか。これは、どう考えてみても不合理な事務処理上の判断です。

 しかし、M銀行にしてみれば、仄聞するに、個人の口座と法人の口座の取扱いを峻別する上に(ここまでは誰でも納得できます)、個人を消費性個人と事業性個人にわざわざ分けて(なんのこっちゃ?)、後者を口座開設等に関して法人と同じ扱いにするという決まりのようなのです。支店窓口は、この決まりを紋切り型に適用して口座開設申請書を受け付けないと回答したわけです。おめでたい話です。

 ここで、小生がそれではとその申請書を窓口担当の目の前で破り捨てるかして、もう一枚申請書を要求し、今破り捨てたのは事業用と考えていたものだが、これから記入するのは個人使用のもので、今日は最初から事業用と個人使用用の2口座を開こうと思っていたのですとでもいえば、良かったのでしょうか? しかし、これはまさに「合理」からの主張で、最悪「合理」と「原理原則」の水掛け論になっていたことでしょう。

 今や「美徳」ということを「原理原則」や「合理」と並ぶ価値判断の基準の一つとしている個人や企業は、限りなく皆無に近いのではないかと思います。このM銀行の支店には「美徳」のかけらも存在しないことが分かりました。しかし、「美徳」という視点を見失って、欧米社会の仕組みを取り入れれば取り入れるほど、我が国の社会システムの金属疲労の度合いが深まってきている様な気がしてなりません。