エウレカ徒然備忘録

時事報道への感想を中心に、ときにアニメDVDを使った英語学習法などを徒然書いています

蒼穹のファフナー−その3−

蒼穹のファフナー」、まだ後半のかなりの部分がGyaOで視聴可能だった今週、じっくりと考えながら再視聴を試みた。もう一度見てみたいと思わせるこの作品は、世間の評価が高くないようなので傑作とは敢えて言わないが、「超B級Anime」と言って差し支えないだろう。

Fafnerの物語では、操縦者である子供たちが次々と倒れてゆくのが特徴の一つで、特に終盤では、第22話のMk. Drei搭乗の咲良(さくら)がフェストゥムによる同化現象が進み、昏睡状態に陥ってしまい、第23話でMk.Funf搭乗の小楯衛(まもる)が攻めてきたスカラベフェストゥムと相打ちで戦死。そして、第23話ではマスター型フェストゥムに乗っ取られた人類軍のMk.Nichtの攻撃から島を守るためMk.Einで出撃した日野道生(道生は成人だが薬を打ってFafnerに搭乗)がMk.Nichtを道連れに自爆。脱出に失敗して彼の子を身籠っていた真矢の姉弓子を残して戦死と悲劇が続き、Ending曲の「Separation」歌詞2番が流れる。この悲劇の3話とひどく悲しげなEnding曲は、泣かせる。そしてそれに続く第24話には、日本人の死生観のようなものが凝縮されているようで、日本人ならば琴線に触れるものがある。

日野道生と言う、主人公真壁一騎などより年上の20代の若者は、一旦竜宮島を出て、人類軍の兵士として転戦した後、人類軍の竜宮島殲滅作戦を知って島に戻った人物である。Fafnerに搭乗するには歳をとり過ぎており、ぎりぎりの年代だが、恋人である遠見弓子が止めるのも聞かず、「次世代のパイロットが育つまで」とMk.Einで戦場に赴く。結果的に、道生はその戦いで弓子のいる島を守るために命を落とすことになる。

私は、この話に太平洋戦争における特攻隊を思い出してしまった。この時代若者たちは、決して軍に志願などした訳ではなく、時代の空気に強制され、徴兵されていっただけなのだという言い方がある。確かにその通りだったのかもしれない。しかし、日本人に西欧流の「自我」を求め、その土俵で話を進めることには、そもそも無理があるのではないかと思っている。日本人の死生観の中には、間違いなく家族や同胞を守るために死ねると言う自己犠牲の精神が強くある。この傾向は、確固とした「自我」を確立しない日本人の伝統とも関連があるのではないか。日本という温暖で比較的豊かな島国と言う環境では、他人と争い、略奪することは、限られた資源の浪費につながり、長期的にはそう言った型の人間は長い歴史の中で滅んで行ったであろう。それよりは、他人と協力し、農林業なり、漁業なりの生業を効率的に営む方がはるかに豊かになれる。また、長期的な繁栄を望むならば、子孫のために環境を破壊しない循環型の経営を図らねばならなかったはずだ。それが、四方を海によって外界から隔てられて簡単に移住を決意することが許されない島国に生まれた者の宿命と考えられるからだ。そのような前提条件が、長年に亘り日本人のDNAに刷り込まれ、国民性を形成してきたものと思われる。

確固とした「自我」が確立した社会は確かに大人の社会だが、そんな理想郷は世界の中にどれほど存在するのか。自我が歪んで強調されている社会では、人と人の争いが絶えないことになるのだろう。Fafnerの物語における宇宙からやってきた未知なる敵フェストゥムは、全体で一つの存在であり、もともと個と言う概念がない。他の生物と同化することを目的に行動する。これは、交響詩篇エウレカセブンのCoralianと同じような概念だが、フェストゥムはより攻撃的である。フェストゥムの攻撃(フェストゥムに言わせれば「祝福」なんだそうだ)によって殲滅された日本人の生き残りがフェストゥムの力まで利用して、その子孫と文化を守り、細々と暮らしていたのが竜宮島だった。結局竜宮島の最後の希望を託した「蒼穹作戦」がフェストゥムの殲滅を目論んだものではなく、フェストゥムに自ら同化してフェストゥムとの共存の道を探った一騎の母であり、真壁史彦の妻であった紅音(あかね)に共鳴したフェストゥムの核とその核が持っていると言う人とフェストゥムとの共存に関する情報を入手することだったことも実に日本人らしい発想だった。

最後に、好きな場面はたくさんあるが、中でも比較的印象に残っている場面を一つ紹介する。それは、第17話「生存」だったかと思うが、外の世界を見て島に戻って来た一騎が父史彦に「俺、一人で戦いたい」と口にする。「島を出て、随分とうぬぼれが強くなったものだな」と史彦。一騎は、道生の父日野洋治の設計した傑作Mk.Seinを洋治から受け取り、かつ、自身の高い潜在能力に目覚め、圧倒的な戦闘力を身に着け始めていた。「そんなんじゃないんだ。俺はもう誰にも死んで欲しくないんだ」一騎。「じゃ、お前が死ねばいいのか」史彦。その言葉にはっとする一騎。「さー、もっと食え」史彦、「これは、俺が作ったんじゃないか」、「父さんだって、昔は作ったさ」。これだけの会話に、息子一騎に対する父親としての愛情、そして一騎が無意識のうちに抱いていたうぬぼれをたしなめる気持ちなどが表現されていて、男親はこうでないとなと妙に納得してしまった。竜宮島の大人たちは、過酷な運命の中で、苦悩しながらも親として、大人としての役割を果たしていく人たちで、この作品に共感できた主な理由の一つに数えることが出来る。