エウレカ徒然備忘録

時事報道への感想を中心に、ときにアニメDVDを使った英語学習法などを徒然書いています

手塚治虫展を見てきました

江戸東京博物館で開催中の手塚治虫展_未来へのメッセージ_に行ってきました。

手塚治虫は、1928年に大阪府豊中市生まれ、1989年に胃癌でこの世を去るまで、漫画家、Animatorとして多くの作品を世に送り出した先駆者です。

のらくろ」の田河水泡など、戦前の大家らしき人は言うに及ばず、鳥獣戯画にまで遡れる日本漫画が、手塚から始まったというのは正しくない表現ですが、現在の漫画・Animeの隆盛の礎を築いたのは間違いなく、手塚治虫その人なのだ。Anime Fanの一人として、こう言う催しははずせないと言う思いでした。

展示は、やはり漫画の神様だけあって、手塚治虫本人の生涯が戦後の漫画・Anime史に通ずるといった感じでしょうか。漫画家として作品を発表し始め、上京した当時の手塚とトキワ荘の物語は有名で、当時トキワ荘を拠点とした、若手漫画家の石ノ森章太郎藤子不二雄赤塚不二夫などがそれぞれ手塚の影響を受けて、手塚漫画の持っていた多様性のうち、科学SF漫画、ギャグ漫画などを昇華発展させ、それぞれの分野を確立していき、漫画界の中核を担う存在になっていったのでした。おそらく、手塚治虫の存在は、Rock and Roll音楽におけるBeatlesのようなもので、先駆者として、漫画の革新と多様性を提示し、その発展の可能性を次世代に示し続けた、と言うことなのでしょう。

当時の時代を映して、Disney Animeを見ている手塚は、当然のようにAnimationを手がけるようになるのですが、Anime製作会社として発足した虫プロは、日本で最初のTV Anime「鉄腕アトム」(1963年)、日本で最初の天然色TV Anime「ジャングル大帝」(1965年)と手塚Animeの黄金時代を飾る作品を生み出しています。これに先立って、東映動画の「西遊記」(1960年)、「ワンワン忠臣蔵」(1963年)などの諸作品にも手塚がかかわっていたことは、今回の展示で初めて知りました。

多くの場合、黄金時代を迎えたと言うことは、衰退期がすぐそこまで来ていることを暗示し、手塚のような他を寄せ付けないほどの天才は、しばしば組織を有機的に維持成長させることは苦手らしく、虫プロは1973年に倒産する。この報道は、当時漫画少年だった小生にもかすかな記憶が残っている。手塚の活動と作品は、この虫プロ倒産、手塚の年齢で考えると45歳前後で、前期と後期に二分すると整理しやすいような気がする。

虫プロの倒産による経済的な苦境と、当時、劇画の隆盛に乗り遅れたため、古い型の漫画家と見なされていた手塚は、この時期に後期の代表作となる「ブラック・ジャック」、「三つ目がとおる」などの新たな連載を開始、見事な復活を遂げる。やはり、この苦難の40代を経て、50代の活躍がなかったならば、さすがの天才漫画家も懐かしいだけの少年漫画の革新者で終わっていたのかもしれない。

手塚治虫の第一人者としての自負の強さと他の作者に対する敵愾心の旺盛さは良く知られるところのようで、トキワ荘系に属さない白土三平の「ガロ」に対抗して、「COM」を創刊し、「火の鳥」を掲載したこと、水木しげるの妖怪漫画など自分にでも描けることを証明するために「どろろ」を連載するなど、枚挙に暇がない。会場出口近くには、手塚と面識のあった人たちのコメントの一角が設けられ、その水木しげるが、漫画家の会合で、徹夜自慢をしていたのは、手塚と石ノ森章太郎の二人で、二人とも比較的早くに亡くなったのは、結局命を削って漫画を描いていたからなのだろう、というようなことが書かれていて印象的だった。

東映動画時代に手塚に会っているであろう宮崎駿もAnimatorとしての手塚には、スタッフに過酷な労働を強いるやり方や組織に対する意識の低さを理由に批判的だということをWikipediaで知った。会場で漫画の原画を懐かしく拝見した「Wonder Three」についても「少年マガジン」の連載を編集者側とのいざこざから中止してしまったWoder3事件と言うものがあったらしいことは、やはりWikipediaを読んで知ったことである。孤高の天才にもあの当時の漫画少年には見えなかった様々な苦悩があったようだ。

1989年2月、手塚治虫は胃癌でこの世を去り、ことしは生誕80年、亡くなってからでももう20年の歳月が流れている。

http://www.edo-tokyo-museum.or.jp