エウレカ徒然備忘録

時事報道への感想を中心に、ときにアニメDVDを使った英語学習法などを徒然書いています

人事労務と経営を考える(2)

 経済が衰退期に入った社会の中で生きていくということが前提条件であるとすると、その条件は、よく生きること、よく働くことについて、より深く洞察することを人々に強いている。なぜなら、社会全体の成長期に生を受けた人にとって、例え個人の成長はそれほどのものではなかったとしても、社会全体が豊かになるにつれて、会社が成長し、そのわけまえを享受して、マイホームを立て、新しい家電製品でも買えば、生きていること、働くことの意義も即物的ではあるけれど、目に見える形で実感できたはずだ。しかし、衰退期に入った社会に生きる人にとって、そういう事態は、最早絵空ごとに過ぎないのではないだろうか。

 衰退期の社会において働くこと(少なくとも社会人ともなれば、平日は一日に占める働いている時間が最も長くなるので、生きることにほぼ等しい)の意味を考える場合、「Professionalとは何か」という洞察が、この問題を掘り下げるための手段として、適しているように思える。と言うのは、いわゆるProfessionalと呼ばれる職業は、その社会自体の盛衰にそれほど左右されることなく、常に競争の激しい、生き残るのが厳しい職業だったからだ。

 プロスポーツの世界などが典型だが、真剣勝負の中で勝ち残り、観客に価値を提供し続けるプロスポーツの選手は、「心技体」をこの順序で充実させることができていなければ、とても長くは続けられない。プロスポーツ界では、同じように若年時から身体能力に恵まれ、技能も一般人に比べて遙かに高い者だけが、その門をたたくことが許される。その同じ程度の身体能力や技術能力のあるもの同士の中で勝ち残るためには、心の強さ、人間力という訳の判らないものが決め手になってくるのではないかと想像できる。

 つまり、今後プロスポーツに身体のサイボーグ化(「攻殻機動隊」流に言えば擬体化)が許可されたとして、それでも絶対に機械が代替できない部分が「心」の部分と言うことになる。

 デスクワークにおけるProfessionalとは何か。プロスポーツの世界のように毎日勝ち負けが目に見えるはっきりとした世界とは同一視できないのかもしれないが、しかし、ここでも長きに渡りより大きな価値を社会に提供できることがProfessionalの条件なのだと思う。そして、知識なり、技術・Know-Howの多くが、Netを通じて無料又は安価で簡単に取得できるようになった現代において、「心」又は「人間力」が益々重要になってくると考えるのは、決して誤りではないだろう。

 「心」、即ち、「人間力」とは、詰まるところその人間の考え方である。そして、自己保身に走る「専門職志向」では、決して「人間力」は高まらない。これは組織論からいっても自明のことなのだ。

 ある組織Xに、各々100稼ぐことができる甲と乙がいた。2人は同時に営業部の課長になり、それぞれ3人の部下を預かることになったとする。この3人の部下は、それぞれ単独だと50稼ぐ能力を有していた。そこで、甲は課長となったのだから更に営業のための知識と技術を伸ばして200稼ぐことに奔走し、部下の範たろうとした。この結果、3人の部下も若干売り上げを伸ばし、結果は、甲200+70+70+70=410であった。一方、乙は、管理職の仕事は人の育成と心得、これまで自分の培ってきた営業の知識と技術を3人の部下に継承させ、彼らを引き上げることに注力した。その結果、乙100+100+100+100=400であった。そこで、Xにおいてこの数字のどちらを評価すべきか。

 表面的には、わずかに甲の勝ちだが、乙の方には続きがある。管理職とは何かと言うことを乙から直伝で学んだ部下の3人が将来管理職になった時、乙の例に倣う確率は高い。つまり、人を育てることには、波及効果があるのだ。また、自分が数字を上げることを犠牲にして部下のために時間を使ってくれた上司に対する信頼度の高さは、業績数字には代えがたいXにとっての資産になったとも考えられる。

 それに比べ、甲のやり方は自分の「技」を高めることだけに走っており、組織や他人に貢献すると言う視点が薄い。職種によって業務が厳格に規定されている英米流では、Know-Howを開示すると自分の仕事が奪われるという意識が高く、専門職志向は日本の比ではないが、しかし、そんな社会の中でも上に上がっていく者は、全く別次元の職業意識を持っていると思われる。

 Oxbridgeなどが今でも最重要視していると聞く教養とは、おそらくは、この「人間力」と同義なのだろう。