エウレカ徒然備忘録

時事報道への感想を中心に、ときにアニメDVDを使った英語学習法などを徒然書いています

少子化についての一考察

男女平等社会が理想視され、日本人の女性が強くなって行くのと反比例して、ウルウルしたような瞳の優しげな大和撫子がどんどん少数派になって行く、ような気がする。日本人女性は、世界標準からするとまだまだ優しい。が、ここでも世界標準に追いつき、普通の国になるのに大した時間をもはや要さないであろう。

日本人女性は、伝統的には優しくて、中でも目端の利くのは男を立てることで男性をうまく操縦し、財布の紐も握って、それなりに実権を掌握してきた。それでも、女は男のように前線で鎬を削ると言うことが少なかったから、ウルウルした優しい瞳を保つことができた。少なくとも私の世代の同級生たち、かつて女の子であったおばさんたちは、そう言う瞳が多数派を形成していた。

しかし、女にも男と同じことをするように要求する男女平等社会では、女も男と同じようにずるく、俊敏に考え行動することが要求される。そのためか、今時ウルウルとした瞳でいられるのは、少々頭が足りないか、要領の悪い娘たち...だけなのではないかとさえ思えるほど、状況は好くはない。もちろん中には、少数の例外はいる。しかし、彼女らはあくまでも例外なのだ。

本来的に戦う性である男達と同等に俊敏に考え行動することが女にも求められる社会で、女が子供を産みにくくなるのは、ごく自然なことではなかろうか。1990年代丁度中ごろのAnime “新世紀-Evangelion-”を見てみると、Evangelionの操縦者である碇シンジ綾波レイ、惣流アスカの3人中2人が女性で、操縦者としての3人の立場や役割は全く対等である。Evaから推測するに、男女平等社会の概念は、我が国では1990年代位から急速に広がり、そして、おそらくこの破壊的な少子化の進行に何らかの係わりがあったように思える。

男女平等社会の概念と少子化の因果関係を立証するDataを俄かに探し出すことは困極まりないことだが、大衆は2000年代も中頃になると何となくではあっても、薄々そのことに気付き始めているかのようだ。真の男女平等は、その果たす役割の違いや特性を十分認識した上で、互いを思いやり、互いを生かすために役立つ概念でなければならない。2006年から2007年にかけてSunriseによって製作された“Zegapain”では、ZegapainはGunnerとWizardの二人乗りで、前方でZegapainの走行と直接的な武器による戦闘を行うのが男性の役割であり、後部座席でZegaのありとあらゆる制御面を担当するのが女性である。

更に、Zegaでは、Heroin守凪了子が、自分たちが暮らしていると信じていた世界は実は舞浜Server内の仮想空間で本当の世界がServerの外にあること知った時、連れ出した主人公に「(スクーター)私が運転してもいいよ。でも、私はやっぱり後がいいなあ。」とのたまう場面まである。敢えて後部座席が良いと主張した了子は、その後Wizardとして紆余曲折を経た末、主人公の子を身籠ったと思しき姿で最終回が終了する。Zegaの物語りの主題からはやや外れていることを承知で言わせてもらえば、今後の男女差別問題の今後の趨勢予言する、結構意味深な終わり方だったと言うのは、単なるこじつけか。