エウレカ徒然備忘録

時事報道への感想を中心に、ときにアニメDVDを使った英語学習法などを徒然書いています

化物語_リアリズムの程度

ブログネタ: 大相撲の八百長問題、どう思う?参加数拍手

アニソンを超えるアニソン>「君の知らない物語」で知られる「化物語」の数話を見ました。超ツンデレヒロイン戦場ケ原ひたぎが主人公阿良々木暦(こよみ)に告白するところまでです。この作品は西尾維新の所謂ライトノベルが原作、2009年夏にTV Anime版が放映されました。

絵が綺麗で(ひたぎも十分綺麗です)、なかなか良くできた作品です。ツンデレヒロインと怪奇SFの学園物といえば涼宮ハルヒシリーズがありますが、この作品の神髄はひたぎと暦の掛け合い漫才のような言葉遊びにあるようで、結構笑えます。Die Hardで売れる以前のBruce Willisと当時既に売れっ子だったCybill Shepherdの掛け合いが売り物だった“Moonlighting”を思い出しました。

楽しんで観ることができた作品に唯一ケチをつけるとすれば、作品の所々に写真を忍ばせる手法です。ひたぎクラブその弐では、若い女性の顔写真まで貼り付けられていましたが、個人的には、この手法に違和感を感じ、これが作品をぶち壊していると感じてしまいました。

何故、Animeに実写を差し挟む手法に対してこんなにも嫌悪感を抱くのか、少し考えてみました。その答え、おそらくは、個々人が持っている心地好い「リアリズムの程度」によるのだろうということです。小生が芸術に求めるリアリズムの程度は、作り物と生の現実との間にあり、どちらかと言えば作り物の方に重心が傾いているのです。昔から、写実とか私小説は芸術性が低いのではないかとさえ思っているところがあるのです。逆にAnime大好きの理由も、おそらくはその作り物性にあり、小生にとってAnimeというどこまでリアルを追求しても所詮作り物であるというこの手法自体が心地よいリアリズムの程度なのかもしれません。

そこに唐突に写真を入れられるのは、Anime製作者の意図がどうであれ、リアリズムの程度に違和感を生じさせ、異物の混入のような不快感をもたらしてしまうようです。邦画界が話題になったAnimeを実写化しても上手くいかないことが多い理由の一つは、意外とこんなところにあるのかもしれません。もちろん低予算でAnimeという手法によって無限に拡がった想像の世界を実写化することに無理があることが理由の一番なのでしょうが。

心地好いリアリズムの程度が人によって異なるとすると、相撲のような見世物に求められるリアリズムの程度も人によって異なり、それは長い歴史の中で最大公約数的なところに集約してきていたとは考えられないでしょうか。全ての相撲の取り組みが真っ向勝負のガチンコだけと思って、そういうリアリズムを信じている相撲好きが一体どれくらいいたのか、非常に興味を覚えます。だからと言って、相撲がプロレスのような台本有りのショーと決めつけている人は非常に少ないというか、そこまではいくらなんでもあり得ないということは誰にだってわかります。

もちろん賭博が絡んだり、裏社会と直接的につながっていくようなことは排除されて然るべきですが、相撲のリアリズムは、その歴史の中で日本人の最大公約数が心地よく感じるような程度のリアリズムに落ち着いているはずで、誤解を恐れず申せば、全体としてガチンコ勝負と八百長の中間のどこかにあったのではないかと思います。それを陸上や水泳のような完全ガチンコに持っていくことによって、果たして八百長問題の解決になるのか疑問ですし、そもそもそんなことは実現不可能のようにも思えます。

と言いつつも、かつてのPRIDEなどといった、年末の本気の総合格闘技を結構喜んで見ていたのは事実でありますが...。